龍=落雁 橋=上用
紅葉=生砂糖 水=有平糖









苔・芝舟=餡平
椿花・水=生砂糖










源氏雲=落雁 燈籠=片栗
石=大徳寺納豆

 
 今さら改めて書くこともないと思いますが・・・。
菓祖神田道間守は新羅国の王子天日矛の子孫であり、垂任天皇に仕えた但馬の国の守であります。西暦72年、天皇の命を受けて珍しい果物を求めて常世の国(台湾、広東方面)へ旅立ち、10年の歳月を費やして橘の苗木を沢山に持ち帰りましたが、天皇は既におかくれになり景行天皇の御代になっておりました。田道間守は非常に嘆き悪しみ、天皇の御陵のほとりにある池の中の島で自ら墓穴を掘り殉死したのであります。
 当時、橘は「非時の香の実」と称して、花は少女等が袖に入れて香りを楽しみ、実は糸に通して玉のように戸首に巻いたり、また、首かざりにして楽しんだようです。
 橘は、現在の蜜柑の原種であると伝えられ、また異説もあります。昔は果物を菓子として用いました。その例として
 織田信長茶会 天正元年11月22日客3名
      器(料理は略す)
 菓子九種 美濃柿。むき栗。きんとん。こくし。椎茸。きんかん。
      ざくろ。結昆布。いり榧。花すり。
 豊臣秀吉 大阪城内茶会 
      天正15年5月3日
    客 神谷宗湛外堺衆5名
   菓子 白青扇がた煎餅。いり榧。蜜。
外に菓子として、川茸。あぶり海苔。蜜柑。水栗。(菱の実)。独活(うど)。吊柿。さざえ。苧麸。等あります。
  橘のとわのたちばな八千代にも我は忘れじこの橘を   巻十八




 薯蕷の雪餅、栗きんとん、紅白の相生きんとん、黒砂糖製のしのび草などは、お客の特注でこしらえますが、四季を通じて季節の風情を楽しむきんとんは、薄茶濃茶の菓子として最適です。
 ことに、節分を過ぎてから作る菜種きんとんは、茶家では茶祖・千利休を偲ぶ菓子として好んで用いられるようです。
 千利休は、堺市の生まれで祖父は足利義政と同朋であり、田中千阿弥と称したが、武士を捨てて千阿弥の千をとって千氏を名乗って堺で魚問屋をしていた。利休は長男で、与四郎と称した。19歳で武野紹に師事して茶道を修め、そのかたわら堺の禅寺で座禅の修行もした。家は資産家であり、利休は少年の頃より美的感覚があって、多くの茶の名器を貯えていたという。
 利休と信長の出会いは、利休四十歳の時に信長が堺を訪れて商人との交渉の際、信長に茶を献じた時からであり、性格的に信長と相通ずるところがあって、信長は利休を重んずるところとなり、安土城が出来てからは城中で最も良き茶の相手としたのである。
信長の歿後、秀吉に仕えて葭屋町に居を構えた利休は、三千石の知行を得ていた。そのころ、京都御所へ秀吉と共に伺候して正親町天皇に茶を手前して献じ、天皇より居士号を授かった。
 大阪城での利休の振る舞いは、秀吉の豪華な政治的な天下一と、“わび茶”の利休の天下一の対立となった。この時代、茶道が盛んで、茶を知らぬ者は人で無い、といったものである。北野の大茶会も、秀吉の命を受けて利休が企画演出したものである。
 大徳寺山門事件は、利休が大徳寺山門を修理した際に、楼閣に諸仏像を安置し、それとともに利休の雪駄ばきで頭布姿の木像を置いたことであり、これは秀吉がたびたび大徳寺へ参詣するので、秀吉はこの山門を通らなければならず雪駄ばきの像を置く事は不届きであるとして秀吉の立腹は激しく、命じて木像を引きずりおろして戻り橋のほとりで木像をはりつけの刑に処したということがあった。
 この後は、利休は堺の生家に引きこもり、2月28日切腹したのであるが、床の間の花入れには菜種の花が生けられてあったと伝えられております。
 時に、天正19年利休71歳であった。辞世の和歌に―――
   提ル我得具足ノ一つ太刀今此ノ時ゾ天ニ
 この日、雷が鳴り大雨大霰が降って、はげしい気性の利休の最後にふさわしい日であったと伝えられております。
写真は、京菓子協同組合青年部美味創心より掲載。

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