山=そば薯蕷製、
なすびの花・蔦と木=生砂糖製。






袖・鈴・山・橋=生砂糖製、
松=有平糖製、川=琥珀製。


 厄難の起る年として忌み慎むべき一定の年令を厄年といい、「厄年」と呼ばれる年令には土地ごとに違いがあるが、男子の25才、42才、61才。女子の19才、33才、37才は全国的に共通している。これは陰陽(おんよう)家の説によって平安時代に公家の社会に盛行し、後に男子の42才と女子の33才は「大厄」とされて前厄、本厄、後厄と前後3年間を忌む事が多く、本厄の年に厄年の祝いを行なう例が広い。室町時代の「捨芥抄」には13、25、37、49、61、85、99才を厄年としているが、これは、十二支の思想によるものであり、奄美群島や沖縄の諸島でも男女を通じて同様の事が見られる。しかし南島には内地で大厄とする男子の42才、女子の33才の祝いは認められず、内地に見られない49才の年祝が圧倒的に多い。従って、男女別の厄年を規定しない室町時代の厄年と南島との一致は、かなり古い時代に逆のぼるものと考えられよう。男子42才、女子の33才を大厄に選んだのは近世も末の頃と言われるが、これは42が「しに」33が「さんざん」に通ずる所から大厄の年として強調されたと見る他はない。しかし日本の村落には人間の一生に幾度かの折り目となる年祝があり、それを境にして社会的に諸種の役目をになう慣行がみられる。子供組に加入する7才、若者組に加入する13才、若者組から脱退する25才、村落の神役を得る資格の出来る42才、頭屋に加入できる61才などがそれである。これは同時に子供組、若者組、壮年組、老年組という村落共同体の年令区分ともなり、それぞれの社会的役割の定まった年令集団としての意義をもつ。厄払の方法として、一般に行われるのは、年初めの決まった日に神仏に参り、又厄を落とせば良いというので、身の廻り品を道の辻に落としてきたりする、しきたりもある。
<紅白薯蕷饅頭 引菓子>

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花笠・桜=生砂糖製、
椿=有平糖製。




[還暦]
61歳(満60歳)の寿を祝う年祝の1つ<本卦がえり>ともいう。満60歳に達すると、再び生まれた年と同じ干支年にめぐり会うのでそれを祝う意。文献上還歴の祝いは喜寿(77歳)や米寿(88歳)と同じく、中世以後、上代の算賀(40歳以後10年ごとの賀)習俗のあとを受けて現われ、近世以後一般化してくる。42歳、33歳等の厄年の年賀習俗とは別に、この祝いは老年に入る関門として、年寿を祝う儀礼の最初のものとなり、その習慣は今日も広く行われている。親類知人の招宴や贈答がこれを機に行なわれ、著名人に対してはいろいろ記念の催しも企てられる。又、特に赤い衣類を贈られ、それを着て祝宴をはる賀寿儀礼で、近年まで各地に広く見られた。60歳を機に一切の公役を退き、家長の地位をも去るという類の隠居習慣とも相関するところと見られる。
<引菓子>

牡丹=生砂糖製、
虎=蒸しカステラ・蒸し羊羹製。

[古稀]
70歳の称、あるいは70歳の年寿を祝う儀礼をいう。杜甫の『曲江詩』の中にある、「人生七十古来稀」の句に因むと言われている。算寿の賀は古くは40歳に始まり、10年ごとにこれを祝う例で、平安時代の記録にも70歳の賀礼の事はいくつか散見する。中世に入ると長寿の賀は61歳(還暦)にはじまり、77歳、88歳と祝う慣習が一般化して、10年ごとの賀は衰退したが、なぜか70歳の賀だけは残り、近世の文献にもその例がしばしば見えている。古稀の賀礼は現在もなお広く行われ、親類知己の招宴や記念品の領布、祝賀の贈物などがなされる事は、他の賀礼と同じである。又、著名の人については記念の事業や出版などが企画されるのが通例である。
<引菓子>

格子=ガムペスト製、
山=白雪製、前掛=生砂糖製。

[喜寿]
77歳の年寿を祝う賀礼。<喜の字の祝>ともいい、喜の字の草書体が七十七の字画に相似しているので、この様に呼びならわされてきた。賀寿の祝いは上代貴族の間では主に40歳以後10年ごとに行われる例であったが、中世以後は還暦(61才)、古稀(70才)、米寿(88才)とならんで77才の年寿を祝う慣例となり近世以降、広く普及した。77才と88才は同数の並ぶ嘉年の高齢として選ばれたと推測されるが、明確な事はわからない。今日でも親類知己の間で贈答や祝宴が行なわれ、あるいは記念の催しが企てられる事など通例となっている。
<翁面>

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デンデン太鼓=桃山製
風車=生砂糖製、草履=有平糖製。









鬼=きんとん製、
草履=生砂糖製。

[傘寿、米寿、卒寿、白寿]
賀寿の祝いは、その人の長寿を喜び、更に元気でいて欲しいという願いを込めて祝うのが昔からのならわしである。現在では60歳はもう長寿のうちにはいらなくなった。賀寿祝いの歴史は、奈良時代までさかのぼる。天平12年(740年)興福寺の良弁が金鐘寺で僧、審祥を招いて華厳経をあげ、聖武天皇40歳の御齢をお祝いしたのが始まりといわれる。西鶴の辞世の句でもみられるように、江戸時代は人生50年が通り相場であったようだ。また、その時代は本人自らが寿の字を書いた餅などを親戚、知人に配ったともいわれている。昔は節句に祝うことが多かったようだが、現在では当人の誕生日や敬老の日等にする場合もある。

[傘寿] 数え年80歳のお祝いに「祝傘寿」と書く。
[米寿] 数え年88歳のお祝いに「祝米寿」と書く。品物の場合には「寿」だけでもよい。米寿のいわれは、米が八八と分解できるところからきている。
(追記)一升枡とか枡かけを配る風は、丹波でも散見するが、京都高雄では枡かけとともに手判を配る。男は左手、女は右手を押し、八八の手判といって、もらった家では土間の入り口に貼って護符とする。
[卒寿] 数え年90歳のお祝いは「祝卒寿」と書く。
[白寿] 数え年99歳のお祝いは「祝白寿」と書く。
現金よりもふだん手にできる身のまわりの品物などが喜ばれる。
[注]全て、熨斗はつける。水引きは紅白金銀蝶結び。

長寿のお返しの表書きは「寿」とし、紅白の餅や赤飯などですませる。近所には「内祝」とする。

写真は、京菓子協同組合青年部穏歩前進より掲載。

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