京菓子
回廊=生砂糖製、
釣燈籠=有平製、
鴟尾(しび)=落雁製。













笹=生砂糖製、
小判と鯛=コナシ製。













柊と鰯の頭=餡平製、
豆=きな粉洲浜製、
鬼の土鈴=芋つなぎ製。
 これほど優美な容姿と、気品あふれる風味、そして詩情ただよう嗜好品は世界に類を見ない。
この京菓子はどのような文化との交わりで育まれたのだろうか。
 菓子の起源は古く、白鳥が餅になり、たちまち芋草(稲)に化したという神話にも出てくるように、餅や米・麦でつくる飴(あめ)は古墳時代まで遡ると考えられる。菓子の言葉のおこりを果物とすれば、伝えによると、田道間守[たじまもり]が常世国から持ち帰ったという「非時香菓」[ときじくのかぐのこのみ]が今日の橘となり、菓子の起源とされる。今日田道間守はお菓子の神様として崇拝されている。
 今、私たちが食している「椿餅」「おこし」「煎餅」の原形は奈良・平安初期の遣唐使によって伝えられた仏教や養蚕・織物・唐菓子など多くの中国文化のなかにあった。この唐菓子が「唐くだもの」といわれ、菓子らしい形となった。唐菓子は米や麦などの粉をこねて蒸し、甘味を加えて餅にしたり、油で揚げたりしたもので、宮廷や社寺で祭事用の供え物として尊ばれ、宮びとの贈答品や間食として喜ばれた。今に続く節句などのしきたりもこの当時にでき、菓子も折々の脇役としての地位を持つようになった。
 鎌倉・室町時代にかけて禅宗が伝来し、 栄西禅師が伝えた茶の湯の作法と点心・味噌は禅寺に伝えられ、食生活を大きく変え豊かにした。点心は料理に属する物もあったが、現在の蒸羊羹[むしようかん]や肉饅頭にあたる羹[あつもの]や菜饅頭・砂糖饅頭もあった。垂味噌をつけて食べる粟饅頭は肉食を嫌う日本ではすたれ、小豆餡を入れる饅頭のみとなり、つくね芋を使う薯蕷饅頭[じょうよまんじゅう]、織部饅頭など多くの饅頭が工夫された。それまでの菓子は公家貴族といった限られた人たちのものであったが、一般庶民の楽しみとなり、参詣の多い社寺の門前では茶店が開かれるようになった。
 唐菓子・点心が新しい食生活の薫りを伝えたように、室町時代の末期にはポルトガル船が種子島に漂着し、キリスト教と西欧文化の到来でふたたび大きな変化を迎えた。砂糖の輸入であり南蛮菓子の伝来である。当時伝えられ現在に残っている南蛮菓子には、力ステイラ・ボーロ・ビスケット・パン・金平糖[こんぺいとう]・有平糖[ありへいとう]・カルメラ・鶏卵素麺等がある。
茶の湯が京菓子に果たした役割は大きいが、今日のような菓子が登場するのは、元禄の頃からで、千利休や古田織部の頃まではヤキグリ・コブ・シイタケ・クワイ・麸焼など素朴なものだった。
 江戸後期に入り8代将軍吉宗の甘藷栽培奨励や肥沃な近江・丹波地方の穀物の流入、京の水質の良さ、そして世相も重なり菓子づくりが飛 躍した。ものに銘を付けることは、古くから武具や馬などに見られ、茶の湯でも利休の頃には様々な道具に銘が付けられるようになり、元禄期の頃には菓子にも銘をつけて楽しみ、銘も味わうようになった。それは『古今集』『新古今集』の歌にちなむもの、形や世相にちなむものなど多彩であった。菓子の意匠も茶の湯・王朝そして町衆の遊びの文化、なかでも、品位が高く斬新な美を表現した尾形光琳・乾山の琳派の影響があるといっても過言ではない。また乾山は多くの菓子器や銘々皿までも焼いてる。形や色をととのえ優雅な銘がそえられ、その器までもつくられ、ここに京菓子が大成された。
 明治時代に入り砂糖の輸入の増大に伴い、京菓子の全盛期をむかえ、一般庶民に広く普及した。このように外国文化を己れのものとして受け入れ「創造」し、つくり続けてきた京菓子を礎にし、21世紀の京菓子へと伝承したい。

写真は、京菓子協同組合青年部結成20週年誌より掲載。

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