ちまき=片栗入りちまき
鉾=白餡入り焼皮







釣鐘・紅葉・数珠・傘=生砂糖
傘の柄=餡平

 
 総本家若狭屋平兵衛翁は、明治、大正、昭和初期における京菓子工芸菓子の草分けであり、パリ万国博覧会にも出品出張せられて世界に日本の菓子を紹介せられた方である。また、京菓子について高邁なる見識を持っておられ、茶道書にも京菓子について長文の意見書と和菓子の意匠を彩色図案にして寄稿しておられる。
 花びら餅、庭かまど、若えびす、かざしの梅、舞鶴、賭弓、花の鈴、下萌、山里、未開紅、佐保姫、伏見山、嵐山、藤の花、州浜葉越の月、きせ綿、後のひな、楊貴妃等があって、それぞれに作意が記されてあります。私が教趣を受けたのが楊貴妃であります。これは一般にうら桜の意匠でありますが、それは海棠桜でありまして、海棠は薄紅色の清婉な花で、やや下向きに咲いて丁度花の裏側を見るようであります。海棠桜の花が雨に濡れている風情は、美女が憂いに打ち沈んでいる趣があるところから楊貴妃の菓銘が附記されております。
楊貴妃は四川省の出身で、幼くして孤児となり、楊氏に引き取られて成人し玄宗皇帝の皇子の妻となる。6年後の22歳の時、玄宗皇帝に召された拒めば皇子とともに殺される。七夕の夜、温泉宮おいて皇帝56歳と契り、名を太真と改めた。この日より皇帝は朝早く寝室を出ることがなかったといいます。皇帝の寵愛日増しに深く、ついに妃位の最高位の貴妃となる。侍従及び側近のものが、己の地位の安全と栄達の為に皇帝に媚びて、貴妃の義兄楊国忠を宰相に、義姉義妹を宮中に推薦して高位につかせたが、国忠の専横の為に国境守備群の安禄山将軍の叛逆となり、皇帝は難を逃れる為に四川省方面に向った。途中馬嵬の駅で近衛兵のクーデターが起きて、楊国忠及び義姉妹も殺された。楊貴妃も国に殉ずる形で命を絶つのであるが、皇帝の悲痛なる心入りで血を見ぬようにとの命により、侍従長が皇帝の馬前において梨の木の下で「楊貴妃が悪いのではありません」と一言告げて布切れで首を縊ったのです。
高浜翁はうら桜を楊貴妃と菓銘なされたのでしょう。




通天橋=生砂糖
紅葉・水=雲平 木=餡平
岩=カルメラ 苔=落雁


 栄西が中国から茶の木を持ち帰り、洛西の栂の尾に茶の木を植えたのが我が国の茶の始まりでありあることはご承知の通りであります。源頼朝の妻の北条政子と長男の頼家の支援を受けて建仁寺を建立し、臨済宗の本山としたのであります。
西紀1190年、その建仁寺で毎年春に栄西禅師の頌徳の茶会が催されますが、その本席の茶菓子は昔のままに塩味のこんにゃくでありますが、副席に兼中斉好みの柳絮という菓子があります。これは青色のこなしで、黄色の白雪を巻き、中央にくるみを入れてあるのであります。柳絮は春に中国で見られる風景でありまして、柳の花が一斉に咲き、そして、散りますが、それが風に乗って黄色い吹雪のように飛舞するのであります。
我が国の茶家では柳は日の出の目度度い木として取り扱われて、正月の茶室の床柱には柳の枝で柳結びが飾られ、祝い箸も柳で作られます。柳の字をくずすと、木偏に卯でありまして、卯は十二支の東に当たり、東は日の出であり、事の始まりと申します。
茶の木の祖を偲ぶ茶会の茶菓子として柳絮は趣意が深いと思います。そして、木造建築物では、柳の木の棟木が最上と聞いております。これと対照的に栗の木は西の木であります。十二支の酉は、西であり酉の時の一画を略して西の下に木をつけると栗になり、栗の木の土台の基礎材は又建築物最上であり、戦前までは鉄道線路の枕木はすべて栗の木でありました。栗の実は秋の味覚の白眉でありまして、栗きんとん、栗鹿の子、栗羊かん等々、栗の菓子は魅力の王座であります。昔は武士が出陣の門出に際し、勝栗で酒を汲み交しました。
戦前、中京区寺町二条にかぎや政秋老舗がありました。鉄筋のビルで二階が喫茶店、京都の菓子店ではビルと喫茶店はこの店が初めで立派でした。毎年秋になると、マロングラッセが新聞に広告されて、この店の自慢の一つでありました。現今では、四季を問わず栗の菓子が氾濫して居りますが、栗はやはり魅力がある菓子であります。

写真は、京菓子協同組合青年部美味創心より掲載。
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