後列左より=花びら餅、寒紅梅
前列左より=都の春、
常磐饅頭、冬木立


 嘉祥菓子は、「嘉定」とも言い、仁明天皇の承和15年(848)6月16日を吉日として加茂の社にみそぎを行って、年号も嘉祥と改元され、供物を以って祭を行ない、悪疫を祓うに始まるという故事に因む。この年、鋳造された嘉定通宝十六文で菓子を買って食べると、その福に福があり、疫病を除くとされた。嘉祥食の行事は室町時代末期から、江戸時代を通じて行われた。宮中では、侍臣に祝儀として嘉祥米を賜り、この米を菓子に変えて食した。現在、この日を菓子の日としている。
嘉祥の祝いは諸大名から末は小鷹匠、小普請あたりまで登場し、本丸にて将軍が出座して一同に菓子を賜る儀式である。使われた菓子は、饅頭、羊羹、鶉餅(うずらもち)、志んこ、あこや、よりみず、金団、いただき、白団子、干麩、熨斗餅などで、桧葉を敷いて盛られた。
明治の頃は、素土器皿に桧葉を敷き、七種の菓子をのせ、大奉書で菱形に包み、紅白の水引をかけたものであった。




後列左より=琥珀糖、朝の露
前列左より=落し文、唐衣、水牡丹


 
 6月晦日に主として神社で行われる神事。神社の鳥居の下や境内にチガヤで大きな輪を作り、参拝者が「水無月夏越しの祓いをする人はちとせの命のぶというなり」などと唱えながらくぐったり、神社から配られた人形に姓名、年齢を書き、それで身体を撫でてから神社に納めると罪穢れが祓われると考えられている。昔旧暦6月1日は、“氷の節句”で御所では氷室の氷を取り寄せ、諸臣に与え、氷を口にして暑気を払った。水無月を三角形に切るのは氷を表わし、小豆には悪魔払いの意味があり夏越祓いに利用されている。

<水無月>




後列左より=光琳菊、交錦
前列左より=桔梗餅、こぼれ萩、きせ綿









後列左より=織部饅頭、照葉、秋の山
前列左より=名月、山みち、初霜



 七夕は、中国の乞功奠に由来すると言われる。乞功とは巧みを乞うこと、奠はまつる意味である。古来中国では、白光を放つ2つの星、牽牛、織女をそれぞれ農耕を司る星、養蚕や染織を司る星と考え、人々は平芸の上達を祈って祭を行った。わが国では宮中の儀式として奈良時代に始まる。平安時代の記録によれば、清涼殿の東庭に朱塗の高札を立て供物などを調えて、星合を待ち、管絃、作文などの遊びがあったと言う。室町時代以降には娯楽の面が盛んになり、歌合せ、蹴鞠、碁、花、貝合せ、楊弓、香など七種の遊びが行われるようになった。七夕竹の風習は、民間にもこの行事が広まってからのことで、本来は送り神に託して竹につけた人形を流し穢れを払う七夕流しに始まったものである。7月7日の七夕が五節供の一つとして一般書民に定着するのは徳川時代であり、五節供とは1月7日の人日、3月3日の上己、5月5日の端午、9月9日の重陽と七夕である。供は食べ物の意味で、正月のお節料理のように節日に特別なものを食べることから節供の言葉が生まれたと言う。そこで七夕の食べ物だが昔は索餅というもち菓子を食べていた。米粉と小麦粉と半々ぐらいに混ぜて練り細長くひも状にしたものを2本より合わせて蒸したものである。中国から伝わった菓子で、これを食べると疫病にかからないとされてきた。現代はソウメンを七夕に食べたり贈ったりするが、この索餅が変化したものである。
七夕の意匠菓子には、願の糸、梶の葉、蹴鞠、笹竹、色紙短冊、星合わせ、ともし妻、天の川、七姫、妻迎舟、かささぎの椿、小町踊、花扇などがある。

<糸巻き>

写真は、京菓子協同組合青年部美味創心より掲載。
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